History亀田 三・九の市と亀田縞


亀田のまちはここから始まった

三・九の市

元禄の頃,新潟湊では三千五百隻の和船,弁財船,小回し舟等が各地から大豆,小豆,麦,煎茶,木綿,小間物,塩,材木,瀬戸物,塗物,薪炭,にしん,昆布など各地の産物を積載して入港し,湊まちとして栄えていました。

一方湊の後背地では横越島の米,麦,亀田の織物,染物,梨,梅,柿,沼垂の味噌,酒,甘藷,新津の臭水油,横越の大根,牛蒡,酒屋の小豆,早通の梨,麻,袋津の織物,醤油,竹の子,曽川の蓮根,鳥屋野の川魚などが産出され,栗ノ木川の舟運や牛馬,荷車により市場へと運ばれていました。また,会津,村松,五泉,新津,水原,沢海,分田,安田などから新潟に往来する人も多く,京および加賀・近江,越前,能登の商人の通行もありました。その通行の中心地が当時,葦の茂る湿地帯であった中谷内新田,現在の亀田です。

このような地の利をいかして,ここを宿場町とし,六斎市を開催したいと,元禄5年に組頭長谷川嘉之助以下32人が中谷内新田名主に請願しました。元禄6年に新発田藩がこの地の発展を意図して請願を受理すると,人々は町建設と市場開設を目指し,稲葉山の砂山を崩し,低湿地帯の埋め立て普請を始めたと伝えられています。
この新しい町の名は新発田藩郡奉行中山杢兵衛が藩の武運長久とこの地の繁栄のしるしに寿万年を経るとされる亀の名をとり,亀田町としたとされます。

元禄6年暮れから7年春にかけ,本町と横町の家作りがほぼ終わり,元禄7年11月3日に最初の市が立ちました。
市は近郷近在から多数の商い人と買い物客が集まり商盛を極めました。しかし市の立つ通り(現在の商店街の通り)には当時幅2間の堀があったため,市が立ちにくく,堀を東町裏へ移してほしいという請願によって,元禄9年4月に総勢1700人,町をあげての大工事により堀替が行われました。埋め立てた堀は450mほど,新設された堀は490mほどであったとされます。
自動車の普及に伴う交通量の増大に対応するため,昭和41年に市場は現在の場所に移転しましたが,それまでは,地先の商店と市の出店者とが互いに打ちとけ合い,上町―中町―下町とつづくショッピングプロムナードとなっていました。

(「亀田町合併・閉庁記念 亀田の歴史 こぼれ話より」)

 

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町を支えた織物

亀田縞

亀田の伝統織物「亀田縞」の起源は享保年間とも寛政年間とも言われています。その頃亀田を中心とする農村地域で綿が栽培され,木綿織が農家の自給用,冬季の副業として織られていました。当時の織機は「いざり機」という1日半反の性能で,亀田周辺の農家と問屋は系列化された問屋制家内工業となっていました。

幕末から明治初期には織元が農家に織機を貸し付け,出来高に応じ賃金を支払う「出機」となり,市の前日に織元が農家をまわって反物を集め,市日に問屋に渡しました。このような織元は明治初期には茅野山,日水,城山,袋津,木津,二本木,大渕,江口,割野,嘉瀬,車場,市之瀬,荻島などに30件以上あったといいます。

明治10年以降は自宅に織機を置いて織子を雇い反物を製造する機屋が増えました。生産量は明治初年に年15万反程度だったものが明治10年頃には年25万反ほどに増加しました。明治15年頃には綿糸も地元の手練り糸から紡績糸に変わり,この頃導入された「高機
は長機の2倍近い生産能力で,明治35年には機屋の織機が1500台,農家の機が1500台で年45万反の生産があったとされます。

明治32年 亀田物産縞改良組合が設立され,34年に亀田染色講習所が開設,明治36年に亀田物産縞改良組合は亀田織物同業組合に改組し,276業者が参加しました。
明治40年代に入ると1日に約3反の生産をあげる「足踏機」が採用され,機業家による生産が中心となりました。足踏機の採用,染色技術の改良,同業組合の設立によって明治末から大正期を通じ亀田縞は全盛期を迎え,主に東北,北海道へと販売されました。

大正初期からは亀田縞の隆盛期となり,綿機業者や染色業者など660業者による産地となっていました。亀田の織物工場の若い織娘は近郷近在の若者の羨望の的となり,亀田甚句の恋歌となって今に伝わっています。

しかし,昭和5年から昭和10年にかけ,堅牢第一の農村衣料の需要が急速に減少し,細糸を使用した一般大衆向けの着尺地の生産が増加し,昭和13年からは戦時指定生産が始まって綿糸の入手が困難となり,亀田縞の歴史は幕を閉じました。

「亀田縞」が消滅してから半世紀余り、郷土資料館から「亀田縞」の古布資料が発見されました。これを徹底的に分析し,忠実・詳細に再現する研究を経て,2005 年に薄く柔らかい生地として復活し,多彩な製品となって今,多方面から注目を集めています。